ローマ

(4月28日〜29日, 5月4日)


歴史の堆積する街

土曜日にコンクールで山梨へ行った後、帰りに東京に立ち寄って日曜は Ars Ludorum のサガに参加、月曜には生徒さんにレッスンをして、火曜日に自宅出発。韓国乗り継ぎでローマへ向かう。
こうした相変わらずの欲張り日程だったこともあって、体力もつかな…と一抹の不安があったのだが、時差ボケらしい症状すらなかった。ただ、部屋が妙にキムチ臭くて閉口する。部屋がというより、自分たちが臭いのだろう。機内食が韓国風だったのだから無理もない。大韓航空は航空券が安く、空軍上がりでパイロットの腕も良いそうだが、うーむ。

それはさておき、この町には至るところに過去の歴史が降り積もっている。なにしろマンホールの蓋までこれなのだ。

刻まれた"S. P. Q. R."は Senatus PopulusQue Romanus (ローマの元老院ならびに市民)の略。紀元前後に世界に覇を唱えた共和制ローマの合い言葉である。もちろんこの蓋は現代のもので、観光客向けのサービスなのだろうけれども、しかしこの S. P. Q. R. を掲げた本物の遺跡

(下は拡大図:ラテン語ではVとUは同字 *1 )

が街の中に平然と立っているものだから、マンホールまで本物でもおかしくないとすら思えてくる。この街には二千年の時が降り積もり、断絶というものがない。過去と現在が連続しているのだ。あるいはそれは、たやすく朽ちない石造りが空間に長いこと残って、いくつも重なっていくからかもしれない。ちょうど、一人で和音を歌えるピサの洗礼堂のように。

(*1) ちなみに、古典期のラテン語には小文字も存在しない(小文字は9世紀カロリング朝の学僧アルクインの考案)。ラテン語は古代ローマ帝国の公用語だが、これが時代が降るとともに俗語化・方言化して、イタリア語やフランス語が生まれてゆく。しかしそうして死語となっても、学術や公文書では共通語として使い続けられた。チェンバロの蓋に刻まれた格言や、カトリック圏の宗教音楽の歌詞は、だからラテン語なのである。昔の日本における漢文とひらがなの使い分けと似たようなもの。

 

美の徹底

「この街、おかしいよ」

…とは、ローマ滞在の初日を終えて氷川さんと頷きあった言葉。街じゅうとにかく高い建物ばかり。一階一階も高く、そしてなによりどこにでも丹念に装飾が施してある。綺麗な彫刻のアーチだなぁと思って見ると、個人の家の玄関だったというのはザラである。たぶん風致地区のような規制をかけているのだろうとは思うが…。

これがただの民家やお店の風景。氷川さんの話だと、お昼にマクドナルドに立ち寄ったのに、あきれたことにテーブルは大理石で、脚にもしっかり浮き彫りがしてあったそうだ。アメリカの物質文明の象徴も、この街では形無しである。

思えば北方のフランドルのルッカースは、目の錯覚などを巧みに利用し、本物「らしく」見える装飾でチェンバロを安価に量産したわけだが、一方でグリマルディらイタリアの職人は、宝石も彫刻も無造作に本物だけを使うことにこだわった。この街の根性をみていると、それもさもありなんと思えてくる。

これはあまり大事でないが、ついでにボルゲーゼ宮殿の写真。

チェンバロの鍵盤のような壁面装飾で、「ボルゲーゼのチェンバロ」と呼ばれているとガイドブックにあったので、どれどれと見に行ったのだが、実物はこの通り。バルコニーのところが三つの鍵盤で、一階部分がそのモールディングという見立てだろうか。個人的には、言われてみればそう見えなくもないかな?というレベル。

  

フォロ・ロマーノからパンテオンへ歩いていく途中で、ふと見覚えのある名前が目に入って足を止めた。いずれもミューズで、メルポメネ(melpomene)は悲劇を、エウテルペ(euterpe)は叙情詩を、テルシコーレ(tersicore)は舞踏を司る。なんだろうと思って近寄ってみると、そこは劇場だった。

アルジェンティーナ劇場。後で調べたら、1812年にロッシーニが『セビリアの理髪師』を初演したのがここだそうだ。ヴェルディもオペラをいくつかここで初演している。この写真は現在かかっている演目のポスター。

後になって考えてみたら、この付近はかつて「マルスが原(campus Martius)」と呼ばれ、下記フォロ・ロマーノとともに古代ローマ市で最もにぎわった界隈だった。最初に練兵場があったので軍神マルスの名が冠されているが、帝政になるころには競技場や劇場が建って市民の憩いの場となったという。アルジェンティーナ劇場がこの場所を選んだのもおそらく偶然ではあるまい。

それとついでだが、ミューズといえば、大バッハより一世代上のJ. C. F. フィッシャーに、『音楽のパルナソス山』というチェンバロ作品がある。クリオからウラニアまで、それぞれ9人のミューズの名を冠した9つの組曲から成っており、いずれもフランス風の洒脱な音楽が溢れている。弾いても聴いても愉しい佳品。

 

古典世界

市の中央に位置するフォルム・ローマーヌム(現在はイタリア語でフォロ・ロマーノと呼ばれる)は、古代ローマ時代に国家の中枢が置かれた一画だ。敷地内には"S. P. Q. R."の一方の極である元老院の議事堂もあって、それを映したのが下の二枚。

  

議事堂の中はこんな感じ。

当時の議員はこの両脇の段に向かい合って並び、国政の議論をたたかわせた。たとえば、カエサル(シーザー)を向こうにまわして、キケロがカティリーナ弾劾の演説をぶったのもここである。シーザーが「お前もか、ブルータス!」と叫んで暗殺された場所は、ここではないが、ほど近い。(余談だが、シェイクスピアの戯曲でもここ一行だけは、英語でなくラテン語で"et tu, Brute!"と書かれている。日本で水戸黄門といえば「この紋所が目に入らぬか!」なように、17世紀当時の観衆にはお約束の決まり文句だったらしい)。

議場の中で軽く手を叩いてみたら、案外響いてちょっと不思議。残響は音楽には有利でも、下手をすると言葉の輪郭をぼやけさせて、演説や朗読を聞きとりにくくする場合があるのだが。

ヘルメス魔法がメルクリウス神殿の儀式魔法を源流の一つとするのと同じく、マギたちの評議会もこれらローマの政体の伝統を汲んでいる。H. Maz さんが簡潔明瞭に述べられた言葉を借りれば、「投票権を持つ「市民」がその権利を責任を持って行使することは、暗黙にして当然の義務」なのである。もっともローマと同じく、この理念は建前となり、私利に流れた政争や腐敗がみられるのが現実ではあるが。

ちなみに、元老院の近くには、竈の女神ヴェスタの巫女の家がある。清い彼女らが建国以来の聖火を維持するかぎりローマは安泰だとされ、ローマ人は彼女らが純潔をうしなうのを非常に恐れた。ほとんどすべてのコヴナントを守る定番の結界呪文、ReVi“炉辺の守り / Aegis of the Hearth”はこれに由来する命名だろう。こちらも内部の人間が裏切り、トークンを与えて招いてしまえば、結界はもはやその相手を阻めない。

呪文の話が出たので、古代ローマとは関係ないがちょっと脱線。

上の写真はサンタ・マリア・マジョーレ教会。サン・ピエトロ寺院と並ぶ格式の高い大教会である。四世紀のこと、教皇の夢に聖母マリアが現れて、「雪の降った地に教会を建てよ」と告げ、その数日後 真夏だったにもかかわらずこの地に雪が降ったという。CrAu25“夏雪の雲 / Clouds of Summer Snow”がこれにちなんでいることは言うまでもない。

閑話休題。

コロッセオ(円形闘技場)。純粋に大きさだけで言葉を失う。月並みな言い方だが本当に、重機も何もなしでこれを作り上げたのだから、ローマ人の土木建築技術にはまったく感心する。ここに限らず、今回の旅行で Terram の偉大さがはじめて身にしみた。

「ローマ時代のものは、山々それ自体と同じだった」 (R. A. MacAvoy "A Trio for Lute")

内部はこのとおり。中央の床がほとんど失われているが、そのおかげで見える地下は、猛獣の檻に使っていたのだそうだ。地上部分に降りて手を叩いてみたが、音響的な具合はよく分からない。むしろ誰かに客席の方で聞いてもらわないと…。

皇帝とその取り巻きはこの写真のような視点で眺めていたのだろう。勝負がきまると勝利者はパトロンを見上げ、主人が親指を上げたら「助けろ」、下げたら「殺せ」の合図。そんな剣奴や猛獣の血みどろの闘いに、民衆は喝采をおくった。選挙権をもっているのは市民だから、有力者はみな「パンとサーカス」で彼らの歓心を買ったのである。

四版のサプリ『秘儀(Mysteries)』の中に、特殊魔術の一つとして《聖建築 / Sacred Architecture》というのがある。これに基づいて建てることで、オーラを操作したり、入った人間に美点を付与したりできるのだ。例としてこのコロッセオも上がっていて、内容は《バーサーク / Berserk》の付与。そして、ドミニオン下なのでA.D.1220現在は停止中とある。この毀たれ具合ではドミニオンがなくとも発動すまい。

ところで、コロッセオの側面には、上のような教皇ピオ9世の石版がはめ込まれていた。資料がなくて確言できないのだが、少なくとも碑の文面を読むかぎりは、教皇が行った修復工事を記念するプレートのようだ。

これはコロッセオだけではない。たとえばコンスタンティヌス帝の凱旋門にもクレメンス12世のものが入っている。後のパンテオンなどもそうだが、歴代のローマ教皇は史跡をとても大事にしてきたようだ。異教のものだからといって打ち壊すようなことはせず、キリスト教化することで保存している(コロッセオはここで迫害された信者の慰霊施設に、パンテオンは聖母と殉教者の教会にといった案配)。

そしてまた面白いことに、どの碑の教皇も署名にはきまって"PONT(ifex) MAX(imus)"、すなわち「最高司教」の肩書きを用いている。しかしこの言葉は本来、古代ローマでゼウス以下の神々をまつる神祗官の長を指していたものだ。(この地位は共和国/帝国の神職のトップであり、市民の選挙で決められた。帝政になると国軍長官(imperator)の職とともに変質し、皇帝の役職となるのだが…)。こうした小さな事柄からも、重なりあって層をなす歴史がうかがえる。まるで塗り重ねた油絵のよう。

パラティーノの丘からコロッセオを望む。中央左に見えるのがティトゥス帝の凱旋門である。モーツァルトに『皇帝ティトーの慈悲』というオペラがあるが、あれの主人公が建てた門。

パラティーノの丘は古ローマを構成する七つの丘の一つである。『ブレイド・オブ・アルカナ』のセプテントリオンはこれをモデルにしているはず。余談だが、あの組織はけっこう魔術団に通ずるものがあると思う。同類たる天稟持ちをさがしだして拉致誘拐も辞さず、抜け忍には死の制裁、俗世に隠然たる影響力をもちつつも表立っては介入しない、など。

ところで、オランダのスウェーリンク (Jan Pieterszoon Sweelinck, 1562-1621) に『モーレ・パラティーノ(more palatino)』という鍵盤用の変奏曲がある。同じジャンルの名曲『我が青春は過ぎ去り』の陰に隠れて目立たないが、伸びやかな曲想の佳品で私はわりと好んで弾いている。この曲は同名の学生歌をテーマにしており、この元歌からはブクステフーデも変奏曲を書いたし、名前こそ違うがフレスコバルディも使っていた。
題名だけ素直に受け取ると「パラティーノの丘で」となるので、私は長いことこの丘にちなんだ歌だと思っていた。ところがどっこい、先日ひょんなことから続きの歌詞を見つけて読んだら、実態は以下のとおり (*2)

more palatino bibimus,
ne gutta supersit
unde suam possit
musca levare sitim,
sic bibimus, sic vivimus
in academicis.

お上品に酒飲もう
そう、こぼすなよ
こぼせば滴にゃ蝿が来て
喉うるおすぞ
さあ飲めよ、さあ生きよ
学生だから

飲む(bibimus)と生きる(vivimus)を並べて、この二つには b と v くらいの違いしかないんだぜ、という根性がなんともはや。どの時代にも大学生のろくでなしは変わらずということか(苦笑)

(*2) 五行目はリフレインである。原曲に乗せて歌えるように一応、音韻の数を考えて訳してみたのだが、どうだろうか。
もっとも、この歌い出しをどう訳すかは、いまだに決定打が見つからない。ここでは上記の宮廷風の含みから「お上品に」と訳してみたが、爛熟した帝政時代にこのパラティーノの丘で
夜な夜な大宴会が開かれていたのは有名だから、そちらの線も捨てがたい。また一方で、ワインの名産地であるドイツのラインラント=プファルツ州を指すという説もある(同州はかつて宮中伯(comes PALATINUS)が治めていた)。
…まぁ実際に歌っていた連中は、要するに飲めればそれでいいわけで、こんな些事にこだわる私を笑っているかもしれない。

これはコロッセオの前から、目の前にあるネロ帝の黄金宮殿(domus aurea)を撮った写真。ネロといえば母親殺しに妻殺し、大火の濡れ衣でキリスト教徒を大虐殺、とまぁ暴君の代名詞のような皇帝だが、後世の物語の題材としてはなかなか人気があって、また実際興味深くもある。シェンキェヴィチの『クォ・ウァディス』も、2003年夏にやったモンテヴェルディのオペラ『ポッペアの戴冠』も、まさにこの宮殿が舞台なのである。

ルネサンスは、ギリシャ・ローマの古典に立ち返ることを、一つの目に見える目標としていた。16世紀には有名なラオコーン像がここで発見され(現在はヴァチカン美術館蔵)、発掘に関わっていたミケランジェロは大いなる刺激を受けたという。
また、つい2ヶ月前の演奏会では、ヘンデルが三年間のイタリア滞在中に書いた曲目を中心にプログラムを組んだが、そのうち1708年にローマで作曲されたカンタータ『ルクレツィア』は共和制ローマの端緒となったエピソードが題材だし、1709年のオペラ『アグリッピナ』もネロの母親が主人公だ。この地を訪れた若きヘンデルが、これら「実物」に触れなかったはずがない。

ここでも歴史は連綿とつながっている。この街を歩いていると、二千年にわたって無数の再解釈や読み込みを受けてきた聖書に劣らず、こうした古典世界の存在の大きさが分かる。この2つの柱に支えられてはじめて、西洋文化が成り立つのだ。

 

教皇と信仰

旅行の日取りに選択の余地があまりなかったこともあり、3月末から私たちは微妙にやきもきして過ごすことになった。教皇ヨハネ・パウロ二世の体調が悪いのだ。「空飛ぶ聖座」の異名をとって活躍した教皇も齢には勝てず、4月2日についに没。バチカン市国は喪に服し、ヴァチカン美術館なども当面休館となった。

そして半月後の18日から、枢機卿たちがカンヅメにされて新教皇を互選するコンクラーベがはじまる。コンクラーベは新教皇が決まるまで何日でも続く"根比べ"だし、即位してからも戴冠式やらパレードやらが組まれれば、休館は解除されない。歴史好きの友人からは「何十年に一度の時期に行けるなんて」と羨ましがられ、それはまぁその通りではあるのだが、美術館や大聖堂を見られないとなるとそれも残念で、いささか複雑な心境で情勢を見守っていた。

結局、コンクラーベが極めて短時間で決着し、ベネディクト十六世が誕生したことはご存じのとおりである。新教皇が即位がらみの行事を4月24日のミサだけに留めたおかげで、翌25日からヴァチカンは平常に復帰、28日に訪ねた私たちは無事に見学することができた。

というわけで、ヴァチカン美術館。サン・ピエトロ寺院に隣接した、世界有数の美術館である。

ここにかぎらずイタリアには、全世界から観光客が来ている。カメラをぶらさげ、旗をもったガイドに先導される団体旅行というと、日本人観光客のステロタイプのようだが、実際はそんなことはない。むしろアメリカ人で、アメリカ人の団体はどこにいってもいる感じだ。新教皇がドイツ出身なためか、ヴァチカンは心なしかドイツ人も多かったような。

一応書いておくと、ローマの教会や美術館は総じて拝観者に寛容で、場所にもよるが、ノンフラッシュならカメラもOKなところが多かった。この旅行記の写真もみなそうした許可の範囲内で撮影したものである。素人なので、あちこちブレているのはご勘弁を。

館内の通路。他の宮殿や教会もそうだが、この国では装飾のない面というものを許さない。天井も壁も床も、すべて美術で埋め尽くす。広大な面を覆うために、壁画もタペストリもひたすら巨大で、実質的なイタリア初日だったこともあり、その迫力にひたすら圧倒された。

下の写真の左側はアポロンを中心に据えたラファエロの『パルナソス山』、右も同じく『アテネの学堂』。この二つがかりで一つの部屋を飾っていることからも明らかなとおり、もはや「犬も歩けば名画に当たる」状態。みんな図版で親しんできた作品だけに、本物をみると何かインパクト受けるかも?と内心期待していったのだが、壁一面のフルサイズで当たり前のように次から次へと見せられては、もう当たり前すぎてショックもなにもない。とんでもない場所だ。

ここでたくさんの部屋を巡って分かったことがある。建築家がつねに明確な意図を持って音響設計をしているということだ。迷惑にならないように気を付けながら、部屋ごとに軽く手を叩いて響きのデータを集めていったのだが、たとえば上の写真の部屋はかなり豊かに反響する。残響時間自体は普段使っている演奏会場と同程度だが、あそこと違って最後まで身のつまった感じで残るのが気持ちいい。かと思えば、素人目にはさほど変わらない隣室は、少しも音が返ってこなかったり。とても興味深い。

無数の部屋を抜け、ひとまずの終着駅がシスティーナ礼拝堂(ここは館内で唯一、完全に撮影禁止)。コンクラーベはここで行われた。天井画はミケランジェロの『天地創造』、祭壇が背負う壁には『最後の審判』、側壁はボッティチェリやギルランダイオの競作。『最後の審判』のある壁面は幅13m・高さ20mだそうだ。よくぞこれだけ描いたもの。

ご存じの方も多いだろうが、システィーナ礼拝堂には一つの有名な逸話がある。17世紀にアレグリ(Gregorio Allegri: 1582〜1652)がいるが、彼の作曲した9声のミゼレーレはあまりに優れていたので、教皇庁は筆写を禁じ、この礼拝堂でのみ歌わせることにした。ところが1770年、14歳のモーツァルトがここを訪れ、この門外不出の秘曲を一度聴いただけで耳コピしてしまい、周囲を大いに驚かせたという。
私は二十歳少し前だったか、どれどれどんな曲だろう?とタリス・スコラーズのCDを買ってきて、その澄みきった美しさに感動したおぼえがある。それまでルネサンスのポリフォニーはあまりピンとこなかったのだけれど。

肝心の響き具合は…というと、さすがにここでは手は叩けなかった。しかし観光客の声を潜めたざわめきが、こだまとなって常在していたから、相当豊かだろうとは思う。礼拝堂の後方には15ストップ・平行ペダルのオルガンが設置されていた。16'は一本のみで、あとは8'・4'・2 2/3'・2'・1 1/3'を組み合わせた構成。ビルダーを示すプレートらしきものもあったのだが、快晴にもかかわらず堂内が暗めで、柵を張って近くまでは寄れないようにしてあったので、ストップ名も含め、それ以上の諸元は残念ながら分からなかった。

美術館の外に出ずにシスティーナ礼拝堂から直接、サン・ピエトロ寺院に抜ける内部通路がある。またぞろ巨大な通路だが、この下り階段の踊り場を折り返してまもなくのところで、通路の上、窓から差し込む光をバックに面白いものを見た。

「この印にて勝て」

歴代のローマ皇帝と市民はキリスト教を、ちょうど現代のオウム真理教がそうであるように、新興宗教のテロリスト集団と見なして迫害してきた。しかし312年、天下分け目の合戦に臨んだコンスタンティヌス帝は、このお告げを信じて十字架を掲げて戦い、みごと大勝利を収める。彼がキリスト教公認の勅令を出すのは、その翌年のことである。

さてスイス衛兵の守る通路出口を抜けて、カトリックの総本山であるサン・ピエトロ寺院。建物の前にいる人が豆粒にみえるくらい大きい(まぁ大きいのはここに限ったことではないが…)。

ここの音楽家は全欧でも指折りのポストだったから、パレストリーナやら D. スカルラッティやら、綺羅星のような名前が並ぶ。しかしチェンバロ弾きにとって、ここは誰よりもフレスコバルディである。彼は25歳の若さでここのオルガニストに就任し、その演奏を聴くために 3万人が集まったという記録が残っている。この数字は誇張が入っていてそのままは受け取れないそうだが、しかしまあこの大きさなら千人単位で充分入ってしまうだろう。

  

  

イタリアに来て最初に見た教会がここだったのだが、お聖堂が一つの空間ではないということを初めて知った(以後目にした教会もみんなそう)。中央の空間を取り巻いて、一つ一つで日本の教会がすっぽり入るような巨大な礼拝堂がたくさん集まり、全体でほとんどピラミッドを連想させるほどの記念碑的な建物となるのだ。

 

オルガンは何台もあって、フレスコバルディの弾いたのがどれか分からない。ただ、オルガンをもたない礼拝堂の方が多く、設置されているのは全体の1割から2割くらいだろうか。もっとも、同じ寺院の中なのだから、必要になったらオルガンのある礼拝堂に行けばいいという話なのだろう。実際、正面一番奥の内陣では11時の礼拝が行われていたが、司祭が時折グレゴリオ聖歌を一節朗唱するくらいで、オルガンは全然使っていない。1962年の第二ヴァチカン公会議を受けて、祈りももはやラテン語ではなく、現地語であるイタリア語。

  

「この会堂に埋葬された教皇の総覧」。撮影時の手ぶれでよく読めないが、初代教皇である使徒ペテロから、264代ヨハネ・パウロ二世に至るまで、歴代教皇の名が刻まれている。聖堂内の壁面にも右の写真のように顕彰碑がちらほら。彼らは寺院の地下で眠っている。

アルス・マギカ的にはここも《聖建築 / Sacred Architecture》で、《高い志》を付与。神聖オーラが馬鹿みたいに高いはずだが、なぜかここは気配なかったなぁ…。近所の教会ではときどき感じるのだが。

寺院を出て正面の広場を望む。まるで野外コンサートのように椅子が並んでいるが、全世界から集まる巡礼者とともに、日曜日にミサを挙げるためらしい。これだけのものを見せられた後では、この広場が信者で埋まる光景も容易に想像できる。誰かが言っていたが、この国に育ってカトリックにならないのは、たしかに至難の業だろう。

 

皇帝ハドリアヌス

ハドリアヌスは五賢帝の一人で、最大版図を記録しながらも翳りの忍び寄っていた帝国を、先帝トラヤヌスから引き継いだ(五賢帝時代は世襲でなく禅譲)。人生の大半を広大な領土の巡察に費やし、ブリタニア(イギリス)に長城を築くなど、斜陽の帝国の保持に尽くした人物である。(ちなみにハドリアヌスの長城もやはり《聖建築》。守備兵に《魔法耐性》を付与する)。

私はわりと彼に思い入れがあるので、「修学旅行」の趣旨からは多少外れるが、そのゆかりの地を二つまわることにした。一つ目は、ローマのすべての神を祀ったパンテオン。ハドリアヌスが皇帝即位の翌年に建立した万神殿である。

 

上部のクーポラ(円蓋)は直径・高さともに43.3m。例によってとてつもなく巨大だが、完璧な円をなした空間が美しい。残響時間はおよそ2秒半、空間に自然に広がる感じ。抑制のきいたバランスで、申し分ない残り方だ。視覚にも聴覚にも見事なプロポーション。

この開かれていてかつ神秘的な神殿は日時計として考案されていた。時刻はギリシアの職人が注意ぶかく磨いた格天井の上を回り、陽光の円盤は金の楯のようにそこに吊されるであろう。雨は舗床の上に清らかな溜池を作るであろうし、祈りは煙のごとく穴を通って神々の座するあの虚ろな空へと立ち上るであろう。この祝祭はわたしにとってすべてが一点に集中するひとときであった。陽光の井戸の底に立ったわたしのかたわらには諸臣百官がいならんだ。(M. ユルスナール『ハドリアヌス帝の回想』 p.182)

パンテオンに着くとき、時計がちょうど正午少し前だったので、しめたと思った。垂直に降りる「陽光の井戸」が見られるかも! しかし中に入ってみて首をかしげることになる。日差しがなぜかかなり傾いているのだ。おかしいおかしいと思いながらこの日は帰ったのだが、その謎は帰国の近づいたころになってようやく解けることになる。

それはさておき、ハドリアヌスはそれこそ先の教皇ヨハネ・パウロ二世以上に精力的に全土を巡察したが、それにつきあわされる側近は大変だったとみえて、書記官で詩人でもあったフロルスはあるとき、皇帝に軽妙な四行詩を送った。

皇帝になりとうもなや
ブリトンの間をさまよいめぐり
 (三行目消失)
スキティアの霜の餌食とは

これに対する皇帝の返歌もなかなかに揮っている。

フロルスになりとうもなや
酒場の間をさまよいめぐり
料理屋にこそこそ隠れ
腹ふくれたる蚊の餌食とは

そうした旅から旅の生活は、頑健な肉体あればこそだったが、さしものハドリアヌスも歳月とともに衰えを感じ、死に備えるときがくる。アントニヌス・ピウス、ついで後に哲人皇帝と呼ばれるマルクス・アウレリウスにいたる後継ラインの指名を済ませた彼は、テヴェレ川の対岸、現在のサン・ピエトロ寺院の近く(もちろん当時はまだ無いが)に、自らの霊廟を作らせた。行った二つ目の場所はそこである。

Animula vagula, blandula,
Hospes comesque corporis,
Quae nunc adibis in loca
Pallidula, rigida, nudula,
Nec ut soles dabis iocos...

さすらう愛しいたましいよ
わが身の客にして友よ
いまやそなたのその席は
裸で青褪め硬まりて
もはや戯ることもなし…

この写真は墓所にひっそりと留まる石碑で、刻まれているのはハドリアヌス帝の辞世の句。須賀敦子も(彼女らしく暖かく精妙に)指摘しているが、とても音楽的な詩である。ことに一行目が素晴らしい。柔らかい響きの音を選んで(古典期や白銀期は V を U で発音)、縮小辞の-ul も多用し、声に出して読むと、自分の唇が詩句をそっと包むのを感じる。

外から見たハドリアヌスの墓所。彼の死去から400年ほど後に教皇が接収し、以後はサンタンジェロ城(聖天使城)の名で呼ばれることになる。ローマに疫病が蔓延した際、教皇グレゴリウス1世がこの城の上に天使を幻視し、それを境にその悪疫が収まるという奇蹟が起きたため、天守閣の頂上に天使の像を据えてこの名がある。TRPG.NETのArs Magica 雑談所に以前書いたのだが、ここはレギオーありそう。

ちなみにプッチーニのオペラ『トスカ』は、クライマックスでここを舞台になる。恋人を殺され、自分も追いつめられたヒロインのトスカは、この胸壁から身を投げるのだ。

サンタンジェロ城はその後千年にわたって、非常時に教皇が籠城する要塞として機能した。この写真は城の上から撮ったもので、左手奥に見えるのがサン・ピエトロ寺院の大屋根だが、中央下から寺院の方角へ、高い通路のような城壁が延びているのが分かるだろうか。歴代の教皇は万一の場合、この城壁の上を通ってサンタンジェロ城に逃げ込んだのだ。

そのため、天守閣の最奥部には教皇の寝室がしつらえられており、そこをのぞき込んだら、壁面に一台のチェンバロが据え付けてあった。撮影禁止エリアだったので写真は無いが、いびつな台形に、気持ち左手に寄った位置で本体から出た鍵盤など、典型的なイタリアン・ヴァージナルである。以前工房から借りて同じスタイルの楽器を使っていた身として懐かしい。

「神々はもはや無く、キリストは未だ出現せず、人間がひとりで立っていた、
またとない時間が、キケロからマルクス・アウレリウスまで、存在した」 (フローベール)

 

サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ

広場を挟んでパンテオンの真向かいに、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会はある。その名のとおり、かつてミネルヴァ神殿だった遺跡の上に建てられた教会だ。竣工13世紀・完成15世紀というから、まあまあのペースである。私のやっていることは結局お寺めぐりお城めぐりで、つまりは京都・奈良を訪ねる外国人と変わらないわけだが、七日間あちこち拝観してまわった中で、ここほど美しいところはなかった。イェルビトン派なら十人が十人ともパルマ・マギカを外して、芸術の"魔法"を身体いっぱいに浴びるだろう。その教会を紹介してローマ編の結びとしたい。

  

天井に深くまた清らかな色合いの青を配し、空間全体が静けさのうちに調和している。優れた絵画をいくつも飾っているのだが、この教会の美しさの本質はそこではない。ここでは傑作は個々の存在を意識させず、さりげなく溶けこんで全体に奉仕する。空間に満ちる調和、透き通った静けさ。

ただひたすらに美しく、どんな和音がこれを乱さずにいられるだろうかと考えこんでしまう。ミーントーンでは光が強すぎ、不等分律は作為が透けて興ざめだ。平均律は響きが濁って問題外。ルッカースはチェンバロの蓋に好んで"Sonus est Argentum"(音は銀なり)と記したが、静寂を越える音の模索は、音楽に携わる者が一生背負う課題なのだろう。

  

オルガンは身廊前寄りの両脇上部に一台ずつ。本で読んだ知識では、オルガンは西側入口2階の楽廊に設置するケースが多いと聞いていたが、しかし実際には、位置は教会によって本当にさまざまだった。それだけ各々の建築空間が個性的だということか。もっとも、ローマ市内だけで教会は400もあるという。さんざん回ったとはいっても、それに比べれば微々たる数でしかないから、サンプリング不足であれこれ言うべきではないかもしれない。

マリア様がみてる

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