楽士の呟き

2003年秋

9/1

 調律などを抜きにして演奏の本番だけ数えても四つという、例年にない異常な忙しさを誇った魔の八月がようやく終わりました。もっとも、一人前の兄弟子なんぞ、年に40回の演奏会をして、なおかつ弟子をとり、営業回りまでこなしているのですから、私はまだまだ修行が足らんと言わざるをえません。

 今月の14日、いつもプレイしている市民会館で、年に一度のサークル共催コンベンションがありまして、そちらでアルス・マギカの卓を立てさせてもらう手筈になっています。開会時刻は10時。N県まで来てやろうという豪傑がおられましたら歓迎します(^o^)

9/7

 ひそかに my love の肖像をアップしました。こちらからどうぞ。

9/15

 ちょうどトップページ末尾のラテン語名句に"Nisi dominus aedificaverit domum"を書いたので、この機会に。
 アルス・マギカでマギたちを悩ますドミニオン(神聖領域)、あれはこの現代に実在します。いや、別に私は信仰をもっているわけでも、まして洗礼を受けたわけでもないのですが、オルガンを弾きに教会のお聖堂に入ると、その途端にひしひしと感じるんです。冬の早朝のような、身のひきしまる凛とした気配を。
 そして信徒さんたちは、それを日頃から懸命に守っています。「ここのオルガンは神を讃えるために設置したのに、君らは音楽自体を目的に使っているのではないか」と言って、私のような外部の音楽家を疎む方もいらっしゃるくらい。もちろん理解してくださる方も多いですし、私たちも"神の家"の空気を乱さぬよう気をつけてはいますが。

 それから、木霊す声の表示ログを別ファイルに切り出しました。なんせあそこは、15件までしか書きこみを溜められないので…。これからもリミットに近づいたら随時整理していきますので、ご承知おきくださいませ。

9/21

 梅雨以来の湿気が秋になってようやくとれて、この十日ばかりの間に楽器の鳴りが目に見えて良くなりました。楽器のみならず、《正の周期魔術(秋〜冬)》と《負の周期魔術(春〜夏)》をもつ私にとっても、気持ちのいい季節の到来です。

 ところで、二ノ宮知子に『のだめカンタービレ』という、『動物のお医者さん』の音大版みたいなマンガがあります。前に単行本の四巻くらいまで読んで、少し煮つまってるかな〜と思っていたのですが、先日五巻・六巻を見たら見事に殻を破っていて、嬉しくなりました。
 この作品、アンサンブルの場面がいいんですよ。特に四巻の129ページ、セリフ一つない数コマの画面で、指揮者とコンミスが微妙な気配だけで以心伝心のやりとりをしているシーンがあるんですが、こういうとこ「うんうん、そうだよね〜」って共感します。

9/29

 先回書いた『のだめカンタービレ』ですが、人間関係もなんとなく分かるなァというところがあります。私の周りにも、さすがに"のだめ"こそいませんが、三木清良はいるかも。互いの音楽に信頼をおき、色恋抜きで相手の存在を励みにできる同輩というか。そういう人と共演すると、演奏しながら聴きあって、「お、そうきたか。ならばこちらは〜」と反応していく、するとまた相手からも返ってくる、そんなセッションが楽しめます。
 また、オペラ畑の人が役柄に入りこむのも描かれている通りですね。程度の激しい人だと疑似恋愛までしてみたり。最初はさすがにビビりました。なにせチェンバロ弾きってのは手品師でして、物事を突き放してトリックを組み立てる冷徹さが求められ、いわゆる"なりきり"とは対極にあるもんですから。でも悩みぬいた末に"cosi fan tutte!"と叫んだ多賀谷彩子はステキ(笑)

10/5

 音楽以外の雑用にとられる時間って結構多いです。演奏会の企画を立て、共演者を手配し、チラシを作って撒き、当日のパンフや曲間のスピーチも準備しなくては。今月はそれぞれ別個な演奏会が半月遅れで二つあるので、こうした手間も二倍です。やれやれ。

10/15

 チェンバロやオルガンは、アンサンブルにおいては「通奏低音」といいまして、左手で音楽の土台を弾いて支えながら、右手で臨機応変の即興演奏をして、相方をそれとなくリードしたりフォローしたりしていく役回りになります。
 ですから、通の人はともかく、普通のお客さんの目には黒子としか映らず、何か反応をもらえるのはごく稀です。ソロに比べて簡単だとみんな誤解しているので、軽んじられますし(ほんとはソロの時より大変なのに…)。感謝してくれるのは共演者だけ。なんか時々ふっと虚しくなります。そのうち右手の即興で大暴れしちゃうぞッ!

10/25

 埋もれし書物の『エリーのアトリエ』ですが、アトリエシリーズの中で古い『エリー』をなぜ選んだかというと、(初代PSしか無くてそれ以降のを遊んでいないせいもあるのですが)、作品に込められたメッセージが、私にはとても共感できるものだからです。日本社会のレールから完全にドロップアウトし、ヤクザな道を自分で切り開いてゆくことを選んだ私には。師の技に憧れ、兄弟子を道標の北極星として、のろのろと歩みつづけるどんくさい亀には。

♪自信を持っていこうよ 顔を上げ歩こうよ 光さす道を行くために
♪迷うことがあっても くじけそうになっても きっと出来ると 自分を信じて

 明日は六月に買った楽器の初陣です。天気の微妙な加減で鳴り具合が左右される危なっかしさがあって、少々心配ではあるのですが、年端もいかぬパリジェンヌが地球の反対側へドナドナされてきたわけですから、それも無理からぬこと。彼女はギンナン色の rosa gigantea en bouton, いざという時にはその矜持をみせてくれると信じます。

11/1

 ここしばらく、更新がリンクや関連本などばかりの手抜きだったのは、あまりに忙しくて TRPG のことを考える暇がなかったからです。こういう時のために書き溜めておいた小ネタをちょびちょびと放出して、場を繋いでいたんですな。訪れてくださった皆様、あいすみません。
 二ヶ月ぶりにようやく休日がとれたので、懸案だったプレイレポートを一本上げました。かなり雑な作りですが、これでも罪滅ぼしのつもりですんで、ご笑納の上、今後ともよろしくお願い申し上げますm(_ _)m

11/15

 自然界は調和しないようにできています。ある和音を完璧に"ハモる"ように合わせると、かならず他のどこかが聞くに堪えないほど歪んでしまうのです。これは物理法則のなせる業で、それ自体は人の子にはどうしようもありませんが、適切な技術を用いればごまかしが可能です。それが調律。

 現代のピアノは、歪みを機械的に細分化し、すべての音程に均等に背負わせます。いわゆる平均律という奴でして、これならどんな曲をもってきても"ほどほど"に演奏できます。いかにも近代合理主義を感じさせる方法論で、汎用性の高さから、とりたてて調律のことを考えなくとも(もっと言えば自分で調律できない人でも)弾けるのがメリットです。反面、響きの味わいで劣るのはやむをえません。
 一方、チェンバロなどの古い鍵盤楽器では、その日弾く曲に出てくる和音を綺麗に合わせた上で、出てこない和音にそのしわ寄せを押しこめるという方針をとります。歪みをどういう塩梅で分割配置するかが思案のしどころ。悲嘆にくれる追悼曲など、曲想次第で歪みの存在を意図的に利用することすらあります。

 …そういうわけで、チェンバロ弾きはみんな、アースシーの魔法使いなのです。

11/23

 調律するというと、よく「絶対音感あるんですね」と言われます。でもそれはノン。私は絶対音感を持っていません。バッハやモーツァルトだって持っていませんでした。

 昔は同じラの音でも、低くは390ヘルツ前後から高くは470ヘルツ前後まで、町ごとに音高が全然違いました(これはおよそ現代のソ〜シ♭に相当します)。さらに、上で書いたように、調律だってその場その場で適宜変えていたのです。
 それにひきかえ、今の日本で神話化されているのは、「ラの音を440ヘルツにしたときの平均律に合わせた絶対音感」にすぎません。これでは、それ以外の音高や調律法に対応できませんから、せいぜい音叉の代わりにしかなりませんよ。
 人工的な物差しにすがる必要なんてないんです。音や響きそのものに向き合って、快く聞こえるよう柔軟に案配する。それこそが音楽という職人芸です。

 一時ベストセラーになった最相葉月さんの著は、こうした知識/認識が完全に欠落していて、ちょっとなーと思います。ノンフィクションライターとして、彼女は取材対象を誤りましたね。誰でもいいですから古楽畑の奏者にちょっとでも訊いていれば、このくらいのことはすぐに分かったはずなのですが。あれでは絶対音感もろとも、著書も20世紀の徒花です(-_-;)

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