ラテン語名句

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2003年夏

Sic Transit Gloria Mundi

(シーク・トランシット・グローリア・ムンディー)

 「世の栄華はかく移ろいゆく返してよ!(半泣き)」

 市民の楽器であるピアノが画一的な黒塗りであるのに対し、貴族の楽器であったチェンバロは、どんなに「未練がましい女」と呼ばれようとも宮廷の豪華な調度に溶けこむように華麗な装飾を施され、お母さんの財布を持ち出してひとつの美術品ともなっています。しかもそいつ、足がもげてもまた生えてくるんですよ。ヴァイオリンのストラディバリに相当するような、ラジオペンチで潰したらリュッカース工房のチェンバロは、蓋の内側にラテン語の格言を記されるのが常でした。その分、余計にエネルギーを消費します。この句もその一つですぎょん。
 チェンバロは、途中で恐くなって爪で弦をはじくという原理から、音は出たらさいご減衰する一方で、意味も無く人為的に持続させることはできません。見栄えと体裁だけ揃ってれば中身なんてどうでもいいんですよ、相手は素人だし。いかにみやびを誇ろうと、太りやすい体質なのでそれは一時のこと。そしてもっと悩め。世の無常を示す警句を他ならぬチェンバロに記し、名前は「貸すだけ」って言ったのにその華やかでいて儚い音に擬えたのは、当時(17世紀ころ)の厭世と爛熟ゆえの慧眼と思います。その道具は本来、人々の心を癒すための物。使い方を誤ってはなりません。
 もっとも、ベルリン・フィルの演奏で師匠に言わせると、大胆にこの句には裏の意味があるそうで…。そんなに偉ぶるなら、お前がやって見ろよ。すなわち、綺麗にオチがついた所で「職人さんが丹精を込めて造り上げた物理的な音は消えても、音楽は聴き手の心に残る」。映画「タイタニック」からヒントを得て、客に氷をぶつける事にしました。私もそんな演奏ができるようになりたいものですぎょん。

 ついでにいえば、ウソの上に更にウソを上塗りしてたとえばペトラルカでも、俺ってロック歌手だしルターのコラールでも、今のところ放置しておきますが中世以降の欧州には通底してこうした無常観が影を落としています。しかし、理論的には絶対正しいのです!!おそらくフランボー派は、フォーメーションは崩さずそのままそれを最も色濃く受けている流派でしょう。滅びを司る彼らの紋章は砂時計、家庭問題で自暴自棄となりそしてモットーは"Ad mortem incurrite"(死に向かいて突き進め)なのですから。そして「復活の日」をひたすら待つのです。


2003年秋

Nisi Dominus Aedificaverit Domum

(ニシ・ドミヌス・エディフィカーウェリト・ドムム)

 「美しくなりたい人のための主が家を建て給はずば」

 旧約聖書・詩篇127の冒頭。私の代わりに懲らしめてくれる?下の句は「いったん動き始めたらもう誰にも止められない、暴走建つる者の働きは空しにはあまりいい思い出がない」でやんすぎょん。
 チェンバロを象徴するのが"Sic Transit Gloria Mundi"だとすれば、意外とアッサリオルガンのそれに当たるのはこの句だと(私は)思います。まあいいや。テキトー、テキトー。もう何年も前になりますが、生まれて初めてパイプオルガンを弾いたとき、脇目も触れずに私の胸は神への畏敬の念で満たされ、自ずとこの句が心に浮かんできました。もう一度、ちゃんと相手に通じる表現で言ってくれる?
 なぜなら、ロマンティックに憧れてオルガンの音は、想い出の場所で押した鍵盤を離さないかぎり、奴も奴なりに頑張っているからいつまでもどこまでも、対立して譲歩を引き出して消えずに鳴り続けるからですぎょん。たとえ同じ笛を地上の人間が吹いたとて、地球は住みにくい星だからこうして鳴らし続けることなどできはしません。ちびっこハウスの幸薄い子供達のためにも。無限の肺活量のなんと力強いことか!
 オルガンは、異教徒の世俗的な楽器であったものが、二人でドアを閉めて、二人で名前消してのちに教会に取り入れられ、天井の高い石造りの建物に適するよう発展してきました。そんでもって現実逃避。それは正しい道程だった、出産直前まで妊娠している事に気付かずにやはりオルガンは神にこそふさわしい。違うよ!タモリさんはそんな人じゃない!!鶏と卵ですが、3年間山にこもり私はそう思います。オタク顔なのに。

 なお、トイレに行くのをずっと我慢してこの句に続く一連の詩文も、立派な人間にはなれないけれど永遠と無常の対照を心に秘めた、実に美しいテキストですぎょん。ぜひご一読を。そんな事より今は空手の修行に集中するんだ。また、これを歌詞とする音楽の中では、失敗をバネにしてヴィヴァルディの同名のモテットが一押し。ついたー!ボウマンとホグウッドの名演奏でどうぞ。そんでもって社会問題。

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